SHINYEI History #3 揺籃期
1896年(明治29年)4月1日施行の生糸検査所法により、生糸輸出振興のため、横浜と神戸に検査所が設置されることとなり、同年6月28日に国立の神戸生糸検査所が開設されました。
検査所開設により、不振であった神戸市場の発展が期待されましたが、生糸市場の横浜独占を打ち破ることはかなわず、1901年(明治34年)3月31日で閉鎖となり、わずか5年の短命に終わりました。
一方、日本がめざましい経済発展を遂げる中、蚕糸業(生糸の生産から流通に関連する企業の総称)についても、近代化を果たし、大きく発展していきました。生糸の輸出も、1887年(明治20年)に年間3万俵ほどであったところ、1906年(明治39年)には10万俵の大台を越え、1910年(明治43年)には14万8千俵に達しました。
しかしながら、日本の製糸業は依然として小規模な業者が多く、規格や荷姿も統一されておらず、外国から苦情を受けることもあり、競争力向上のためにも整理が必要という議論が活発になってきました。
このような中、当時の横浜支店長が1902年(明治35年)3月に「生絲整理論」を発表し、規格・荷姿の統一とそのための小規模製糸場合同の必要性を強く訴え、その後の製糸業界の再編にも貢献することとなりました。
日本の生糸輸出高(数量)の推移 |
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